記憶と怒り


2017年4月4日

しかしどうしてこう思い出せないとか忘れるっていうのは腹が立つのだろう。

どうして今まで忘れていたのだろうあんなに大切っだったのにとか、あんなに大事にしていたのにマンホールのように地面に穴が開いて上にあったものがスポッと抜けてしまったように忘れてしまうなんてとか、そんなことを思う。

 全ての事を人間の脳は記憶している。でも大切な記憶とそう大切でもない記憶が確かにある。アルバムのように見返すための記憶を大切な記憶としている人が多いが、鍵をかけたとか火を消したとかアラームのスイッチを入れたとか、そういう大事な事をしたかどうかの記憶も大切な記憶のひとつだ。

 

怒りの原因はここにある。

あれは大切な物であった。自分の歴史であるし、他にはないものにまつわる思い出が詰まっている大切な物であった。それがどうして今ここにないのか?

今ここにない事にもわずかにどうにもならない怒りを覚えるが、一番の問題は、そんな大切な物をどこに置いてきたのか思い出せない事だ。

幸いにも眼鏡ではない。眼鏡は身体の一部だから風呂と就寝以外は顔に収まっている。

そんなコントであったら全く良かったのだが、恋しいほどに大切な物をどこにやってしまったのか、そんなに恋しい大切な物であればどこかに置いてきたはずがないということではなくて、そんな大切な物を自分の身体から離してどこかに置くのであればその時の自分の気持ちは如何ばかりかと思う。過去の自分を如何ばかりかと心配したのに、現在の自分の記憶にはないのだからしょうがない。しょうがないから怒る。自分なのにどうにも思い通りにならない。これはしょうがない。ここに落ち着く。

怒っているとどうにかなっているという錯覚で、見つからない記憶をいつまでも探し続ける。きっとあるはず、あるはず、あるはずと思って探り続けるが、一方できっと見つからないと思っている。そうやって自分の目を曇らせて、いつまでもいつまでも探しているという自分の幻の丸まった背中を美化させて、それでそこに落ち着いているという事を知っている。本当は丸まって床をごそごそ探っている自分が醜い事も知っていて。

だから本質から目を逸らしたくてひとことで片づける。

「あーれどーこいったんだっけなー」←今ココ。