東日本大震災の記録③


このあたりからは、記憶が危うい。憶えてはいるがあやふやで、前後するかもしれない。

特に給水車がいつ来たか憶えていない。それまで何を飲んでいたのかも記憶が薄れている。

 

2011/3/13

 

晴れた。日差しは強かった。蓄熱式暖房で暖められた床は、背中がじっとり汗ばむくらい暖かかった。陽が上がってから起きた。今まで緊張していたが、空腹をおぼえた。

犬の世話をして、自宅に向かった。片づけなければ上がれないほど物が散乱しているからだ。ライフラインがないだけで、物はある。津波も来ないここはなんとかなる環境だった。

すでに老人が来て片づけをしていた。病人は危ないから来てはいけないという忠告はあっさり無視された。

 

信じられない事に新聞が届いていた。日付は2011年3月12日。震災の翌日に刷っていた。報道のプロの意志力を感じた。津波の様子が大きく載っていた。よく写真が撮れたものだ。感心した。同時に涙が出た。世の中はこんな風に崩壊しているらしい。枚数は少なかった。この新聞はしばらく取っておいた。後に残そうと思っていたが、山梨に引っ越した際に、被災者を取材に来たNHKの若い女性にあげてしまった。今は無い。

 

とりあえず居間を中心に片づけをした。昼夜を問わず絶えず地震がくるので、2階の自分の部屋ではのんびり眠れない。介護施設から戻った際には、片付いた居間に布団を降ろしてここで寝るつもりだった。犬のサークルもそばにあった。水道をひねって水を出してみた。ちょろちょろと水が出てくる。可能な限り鍋にそれを溜めた。これは水道管に残っていた水が出ただけで、けして水道供給が復活しているわけではない。

 

冷蔵庫には野菜が入っている。野菜室と冷凍庫は引き出し式のため、中身がぶちまけられることがなかった。しかし揺れのせいで少し開いており、中ももう冷えてはいない。キャベツが丸々入っていた。他にも卵や牛乳もある。腐りそうな食品は処分をし、すぐに食べられそうなものは食べるために出した。

 

電気がいつ再開されるか分からないので、放っておくと腐りそうなものは介護施設にあげることにした。調理できるところであれば有効に使ってくれるだろう。部屋を借りても今はこのくらいのお礼しかできない。肉類や卵、野菜を渡した。その代わりなのだろうか、夜はカレーライスを振る舞ってくれた。温かい食事は美味しく、とても有難かった。お茶ももらった。

 

時間は前後するが、この日の午後、介護施設の向かいにあるスーパーが急きょ店を開けるらしいという噂を聞いた。これを聞きつけた人々がすでに長い列をなしていた。本当かどうかは分からなかったが、食料確保をするために並んだ。金庫番である老女から現金を預かり、自分の手持ちの現金も持って行った。

 

この山の住宅地ではスーパーはこの1件だけだ。他の小さい個人商店は皆どこも閉店中だし、山を下りたところにあるガソリンスタンドもコンビニもまだ閉まっている。2011年は巷では「断捨離」が流行っていて、食料や生活必需品をあえて買い込まずに生活するというスタイルを実践している人が多くいた。そういった人はこの住宅地でもたくさんいて、食料が少なく困っているのだった。

 

我が家は巷の流行とは正反対を行っており、老女も老人も物が溢れていないと気が済まない性格だったため、月の食費などは恐ろしい金額となっていた。買っても使いきれずに捨て、また買ってくる。同じものを何回も買ってきては無駄にしていた。しかし震災時はそれが良いと思うこともある。食料が一応あるのだ。非常時とはそういうものなのだと思った。しかし食料を無駄にする行為は未だに肯定できないが。

 

噂どおり、スーパーは開いた。といっても外壁に沿っていつも島陳列しているワゴンを長く並べ、右端に会計場所を作っただけの外の流れ式売り場だった。店の中は床が落ちており到底入れる状況ではないのがガラス越しに見えた。店長を初め店員は皆立派だった。気がおかしくなっていない。そして販売者という責任感がある。自分たちも被災者なのに。

 

私とMは野菜ジュースを求めていた。糖尿病患者は野菜ジュースがあれば生きていけると内科医が以前言っていたからだ。それは健康的でないくらい糖分がたくさん入っているという意味でもある。ワゴンを覗くと、ゼロキロカロリーコーラやパックの野菜ジュースが見えた。パックは12本入りの箱のままであった。値段を聞くとなんと¥500である。即購入した。野菜生活という名前の野菜ジュースだった。

 

簡単に口に入れられるようなパンやおにぎりはもちろんなかった。しかしレトルト食品や缶詰はあったので、お菓子と共に手あたり次第に買った。ひとつ前に並んでいた女性は狂ったようになんでもカゴに入れていた。あれが本能なのかもしれない。困っているのだ。後の人たちのことも考えたが、この日だけはあまり遠慮しなかった。おかげでお菓子やジュースが手に入った。

 

大量の食品を持っていることになんとなく罪悪感を感じ、借りていた部屋に戻る時はこっそり戻った。外の窓から袋を渡して部屋の中に食品を入れた。悪いことではないのに、隠していた。甘いものやお菓子類は心を安心させる。不思議だった。

 

自宅から持ってきた庭のガーデンライトを窓辺に置いて陽に当てて充電させていた。夜真っ暗な道を歩いていると、このガーデンライトが家々の庭で淡く光っていることに気付いていた。これは、普段煌々と明かりに照らされている時は「たいした光じゃないな、防犯にもならない」と思っていたが、真っ暗な中では充分に懐中電灯の代わりになった。これがあれば停電中でも歩いてトイレに行くだけの明かりにはなる、

 

ガーデンライトは松明のようにも持てるし、LEDが入った頭の部分だけを外すこともできた。これを持ってトイレに入った。床に置くと扉を閉めても中が見えた。嬉しかった。電気がない世界はこんなにも暗いのだった。電気がなくて不便だ不便だと言っている人は、まだこのライトに気付いていないようだ。柔軟性のなさ、視野の狭さが命を左右するのが震災や遭難なのかもしれない。

 

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