東日本大震災の記録②


2011/03/12

眠れなかった。眠るつもりもなく、老女のトイレや給水等の世話が必要だろうと思い起きているつもりだった。しかしいつの間にか寝てしまったらしい。時間は分からなかったが、早く目覚めた。すでに起きている人もいた。寝ている人もいた。

次第にほとんどの人が起き上がったころ、前の日に食事を用意してくれたスタッフジャンパーの男性が言った。「皆さん、おはようございます。今8時です。ここは解散しようと思います」周囲がざわついた。ヒーターの燃料が残り少なく、保温性のないこの体育館では無駄遣いとなるため、自宅に戻るようにとの指示であった。なるほど、納得した。しかしそんな理由を聞いても不安がる人もいた。

家族もそうであった。以下Mとする。Mは激高しやすいタチだった。それは糖尿病患者特有の症状でもあるし、甘やかされて育った環境が作ったものでもあった。Mは周囲が解散してばらばらと帰宅していく中怒りをまき散らしながらスタッフジャンパーの男性たちの元へ駆け寄り、「こっちは糖尿病なんだぞ!」と騒いだ。

糖尿病がどうという気はないが、甘やかされて待遇されることが当たり前で育ったMは、もう中年というイイトシとなっても、放り出されることに我慢ならなかった。糖尿病患者の自分は心配されるべき、自分は他の人よりも手厚くされるべき、そう思っていた。このため夜か朝方に駆け付けていた仙台市の衛生課の職員の女性を怒鳴りつけて困らせた。彼女は病気の人が困っていないか配慮のために避難所を見回っていた。

私からすれば、東京都出身の平和ボケがインスリンを普段から多めに所持していないのが悪いのであった。それはその時全員に等しく訪れる災害というものに対する準備の甘さ以外のなにものでもない。

しかし昨晩の老女同様、私は説得をあきらめていた。疲れていたのだ。冷静に考えれば分かるはずだ。非常食を作ってくれたスタッフジャンパーの男性も、夜通し動いている仙台市の衛生課職員の女性も、皆被災者なのだ。自分だけが不幸の境地にいるわけではない。世話してくれている誰もが被災者だ。過剰な接待に慣れてきた平和ボケな人たちに呆れるしかなかった。

Mが怒鳴って無理矢理話をつけたのか、こちらに戻ってきた。向かいにある介護施設の一部屋を借りれることになったらしい。これは有難かった。暖房のない我が家で糖尿病患者がふたりリスキーな状態でそばにいるよりは、老人の扱いや病気について精通している人がそばにいるというのは心強い。電話が不通のため救急車も呼べない事態となっては有難くお世話になろう。

そんなことを考えていたら、わらわらと体育館を出ていく人の間を縫って老人が入ってきた。ゴルフに出かけていた彼であった。我々も彼も安堵したような顔をした。彼はMと抱き合い、私と握手をした。無事で何よりだった。

彼はゆうべのうちに帰り着いていたらしかった。福島県から宮城県につながる海岸沿いの道は津波の心配があるからとあえて山の中の道を車で帰ってきたのだそうだ。この土地を良く知らない彼の判断ではなく、一緒に行っていたゴルフ仲間の初老の男性の機転であった。宮城県民で初老であれば、宮城県沖地震は知っているはずだ。当時の教訓は生かされている。

しかし帰り着いてみても、我が家には誰もいない。犬もいない。車もない。そして布団もない。これはどこかに避難したのだと思ってはいたが、夜であり周囲の建物がよく分からないため、家にある防寒着や布団をなんとか持ち出して車で朝まで過ごしたそうだ。そしてようやく朝になったところで体育館を発見した。

ゴルフ仲間には前日、老女が焼いた食パンを一斤偶然にもプレゼントしていた。食料を持っているから生きていれば困ることは少ないだろう。私はそう思っていた。実際は帰り着いたため、このパンはゴルフ仲間の家に持ち帰られていた。あちらの家族の食糧となっていれば良いと思った。このような嬉しい偶然は震災中たくさん目にした。いつもよりも気が張っていて、普段は気にしていなくても、この時だけ気付くことが多かっただけなのかもしれない。

私たちは荷物を持って、移動し始めた。

向かいの介護施設では、昨晩見かけた車いすのご老人方が広い廊下や居間にいた。私たちが借りた部屋は玄関のすぐ左側に位置し、8畳ほどであった。介護ベッドが一置かれていた。床が暖かかった。暖房が復活しているのかと尋ねたら、蓄熱式だから平気なのだと言っていた。電気が止まっているとは思えないほど、居心地の良い暖かさだった。介護ベッドには老女と膝の悪い老人が陣取った。老人は痛風を患っていた。そのため膝を悪くしたらしかった。私とMは床に寝た。外は雪であるにも関わらず、床に寝ていると汗ばむほど暖かかった。この施設に住んでいる人の心配はしなくて良いのだと思った。

落ち着いてから犬の相手をした。犬は大人しくそして不安そうに後部座席のキャリーバッグの中で待っていた。水を飲ませ、排泄をさせ、歩かせ、食事をさせる。毎日老人たちに構われながら生きているこの犬も、ひとりぼっちは不安であろう。こんな時自分が動物看護士の知識を持っていて良かったと思った。犬に異常がないことが分かる。寒さに弱い犬種であるため、セーターを着せていた。暖房になるものはないが、毛布をたくさん入れた。キャリーバッグの中では落ち着いているようだった。

この住吉台というところは、住宅メーカーが山ひとつ買い取り開拓して住宅地にしてしまったところだ。○○タウンのように新しい名前が付いていないものの、仙台市の中ではリゾート地に近く、近所には別荘仕様の建物も多かった。そして皆建売を買い、終の棲家としていた。我が家はそんな持ち主から借りている賃貸生活であったため、家の心配はなかった。

ただ終の棲家となると犬を飼っている家は多く、それぞれで大変であろうと思った。小型犬で楽だと思った。

部屋を借りている介護施設から自宅までは上り坂だが、同じ住宅地内であり徒歩でも十分行ける距離であった。散歩ついでに外を歩く。なんせ他にすることがない。健康体である私にはこんな状況であっても暇だった。ぴったりと等間隔に並んでいるような住宅地であった。歩いて行くと、似たような見た目の家でも、壊れ具合が違っていた。塀が崩れているところとそうでないところが明確であった。見た目には何も変化のない家もあった。エコキュートが斜めに倒れている家もあった。エコキュートが生きている家では電気が通り次第すぐに湯が沸かせたのだと後から知った。シャンプーが出来るということが少し羨ましかった。

自宅は避難した時のあのままであった。玄関に置かれていた60㎝の水槽が止まっていた。電気がない水槽は魚がすぐに死ぬ。水中のバクテリアが死に代謝されない水が魚たちを殺すからだ。そして水も26度に保てなければやはり魚は死ぬのだ。網で魚の死体をすくって捨てた。早く捨てなければ死肉で水が腐る。そうすると汚水となり臭いが出る。庭に捨ててしまえばよいが、貴重な水だ。50リッターはある。この水槽が2本ある我が家では、トイレの水として確保できる貴重なものであった。

玄関から部屋に入るのに、裸足はためらわれた。震災中は怪我をしないように特に注意しなくてはならない。しょうがなく土足で入った。部屋にものが散乱していた。時計は動いていた。落ちずに壁にあった。台所はとても残念で、冷蔵庫の中身が全て床に落ちていた。卵と豆腐と納豆が混ざると片づけにも勇気がいる。手を洗えない状況では片づけようにもためらってしまう。

2階では、広い廊下のど真ん中に水槽があった。台ごと揺れの影響で歩いてきてしまったらしい。同じく60㎝水槽であるため、戻そうにも簡単には動かない。左右の揺れがあると物は均等に重心を移動させるため、このようにひとりでに歩いてしまう。下手に動かそうものなら倒れてしまうので、放置した。同じように魚の死体をすくってトイレに捨てた。淡々と行うが、残念でならない。

私の部屋は16畳で、オカヤドカリとベタ、アカハライモリ、そしてたくさんの植木が置かれていた。出窓に並べた盆栽の鉢は皆床に落ちて干からびていた。一度干からびると盆栽は復活しない。皆死んだのだった。向かい側に置いてあるオカヤドカリは1匹だけであったが、こぶしほどの大きさの大きな個体であった。オカヤドカリは普段から脱走していたが、この時は水槽の中に入っていた。寒くて動けないのだろう。元気がなかった。しかしヒーターがつかないので暖めてやることはできない。

それはベタも同じであった。ベタは環境適応力が高いため、寒さにもある程度強かった。しかしヒーターのあった環境から突然何も保温のない環境となった場合は適応できない。底に沈んで静かであった。

しかしこれらのペットに私は普段とは違う違和感を感じた。それはたとえ寒くても急変したとしてもこんな風に具合が悪くならないと思ったからだ。なんとなく、生気がない。これは死ぬだろう。そう思った。これは停電だからというものではなく、目に見えない地球から発した何かが影響しているように感じた。地震によるものであろう。例え生きる道具が揃っていても、電磁波のようなそれが体に影響することはある。そんなものを感じた。真相は今でも分からないが、保温できないことを理由とすればあきらめもつくので最終的にはそう思う事にしている。

この間も相変わらず地面は揺れていた。カタカタという音が次第にトラウマのような恐怖感を私に植えつけた。物を置く音、扉を開ける音もこの揺れの音に感じて、びくっとさせた。2階にいると逃げ出したい気持ちになる。この日はほとんど何もせず介護施設に戻った。

介護施設ではバーベキューセットを持っているらしく、庭で何か焼いていた。そういえば食事はどうしようか。自宅から持ってきたお菓子を食べることしか出来なかった。介護施設では食事を作れているらしかった。やはりこのような施設は備えが万全だ。職員の笑顔にも癒された。私たち以外にも部屋を借りている女性がいた。この女性が職員の男性に「あの~、食事は・・・?」と聞いていた。職員の男性も困った顔で「食事は・・・特にでないんですけど、それぞれで・・・」と答えた。当たり前だ。修学旅行ではないのだ。なんでも受け身でしてもらってきた人間は恐ろしいなと思った。部屋を借りているだけの人間が待遇されるわけがない。全員が食うために必死な被災中だ。これに私は呆れた。職員の男性も呆れていた。生きる力がないとはなんと情けないのだろう。

地震直後には大雪となったが、翌日には晴れ間も見えており、天気は異常なほどめまぐるしく変化した。夜には星空となり、晴れていた。犬の世話で外の車に向かった私は、県内のほぼ全域が停電した状態の夜空を生まれて初めて見た。それは今にも落ちんばかりの星空だった。どこの田舎だというくらいに、小さな星までもが一斉に光っていた。人間の作り出す明かりがない世の中は、こんなにキレイらしい。この光景は忘れられないものになったが、死ぬまで見る事はないだろう。見なくても良い。住宅が山の上であるため、市内の明かりがうっすらと遠くに見えていたのだが、被災中はそれもない。美しいが不思議であった。死んだ人の魂は星になるらしい。たくさん死んだのだと思った。この時は死んだ人がたくさんいて、死んだかどうか確認できない人もたくさんいるなんてことは知らなかった。ただ津波の影響が甚大であることを老人が携帯していたラジオで知った。ラジオからなんと流れていたかは思い出すことはできない。住宅街はシンと静まり返っていて、真っ暗だった。介護施設の中も真っ暗であった。