東日本大震災の記録①


これはドキュメンタリーとか実録!とかいうようなたいそうなものではなくて、あくまで人生の日記としてここに残しておこうかなと思う。そしてとても長い。

 

私は東日本大震災の被災者だ。

東日本大震災はなかなかの規模であった。それは世界規模で見てもそのようだけども、体験しても大したことではないように今は思われる。

私は筋金入りの宮城県民。

宮城県ではかつて宮城県沖地震という災害があって、それは私が生まれるほんの少し前に起こったから私は経験していない。その時の教訓から宮城県民は小さい頃から避難訓練に余念がなく、小学校のころから宮城県沖地震の話をたっぷり聞かされていた。そして大人から必ず「10年後に地震がまた来る」と言われ続けた。

実際は10年後ではなく、東日本大震災はそれから20年以上も経ってから起こった。しかしその20年の間には大きめの揺れも小さめの揺れもたくさんあった。要は地震頻発県であった。

そのおかげか、学校生活で地震が起こることはたくさんあり、ミニサイズの本物で避難訓練が出来た。何度もやった。だから宮城県民の心には「いつかまた来る」という備えがあったのだと思う。少なくとも、私の学校の学生と私の世代にはあった。

私があの時大きな揺れを感じて驚きながらも至極冷静で周囲を見ながら「今来るか?!」と突っ込めたのは、このような小さい頃からの備えを周囲の大人たちが持たせてくれたからだと思う。

2011/03/11

あの未曽有の地震が起こった時、私は仙台市泉区の物産販売所にいた。そこは登米市の地場野菜が売られていて、全国チェーンのスーパーよりも好きであった。店は土地の奥まったところにあり、手前側は広い駐車場であった。

向かいには古い徳洲会病院があった。そこで調理師のアルバイトをするべく家族が面接に来ていたため、私はその間物産販売所で過ごしていた。ほどなくして家族が戻ってきて、明日からの勤務が決まったと報告を受けた。

そして買い物を済ませようと店では野菜をたくさん持ってレジに並んだ。私の順番が来た時に「あれ?揺れてる?」という感覚がきた。店内の小物が揺れていたので、また地震かと思った。カタカタ揺れる音を聞きながら清算を済ませ、広い広い駐車場のド真ん中に停めた車の中にいる家族に地震を知らせようと走って店内を出た。

 

 

すると、車に戻ったところでドンと大きな揺れが来た。車は大きく左右に揺れた。巨人に揺さぶられたようだった。今までいた物産販売所から人が走って出てきていた。

反対側にある徳洲会病院からは細かいグレーの煙のようなものが建物の真ん中から天に向かって上がっていた。長細い建物は左右が別の動きをするため、建物の真ん中あたりでゆがみ、その亀裂から生じた土煙が立つらしかった。もちろんこの間も揺れている。

 

車に逃げ込んだはいいが、揺れがひどくて車内にはいられない。結局外へ出た。しかしまともに立てないから車につかまり、車と共に揺れた。

車を止めていた広い駐車場には、何もなかった。電線も通っていない、駐車場だから建物も周囲にない、フェンスからも電信柱からも離れた場所に私はいた。幸運であった。

駐車場の隣の小さなビルからOLさんが出てきた。ビルの中はスプリンクラーが誤作動を起こして水浸しのようだった。

駐車場を囲むフェンスを見た。子供を連れた若い主婦がつかまって立っていた。その頭上の電線が激しく揺れていた。電線がぷつんと切れてあの主婦と子供に落ちたら危ないなと思った。他にも信号の前やフェンスの周辺で身動きが取れずにいる人が数人いた。誰も怪我をしている様子はなかった。何かあれば病院が目の前であるから、助けるつもりであった。

 

車になんとか乗れそうだと思い、座席に座った。カーナビではミヤネ屋が映っていた。ミヤネ屋では津波の映像が放送されていた。ひどい津波だった。それは外国のようだった。しかしこの今の地震の影響であると知って驚いた。体験した地震の中では大きなものであったが、まさか広範囲であるとは思わなかった。そのくらい普段から地震には慣れていた。そして結果被災者であっても、被災地にいたからと言って遠くのことまで分かるはずはなかった。これは後々何年も、それこそ今に至るまで被災者ではない人との隔たりとして残る違和感となる。

車をどうにか動かせることが確認できたため、自宅へ向かった。70代の老女と犬がいるはずだった。そこは交通量の多いところだったため、この時は余計に混んだ。信号が止まっていたからだ。

いつもより何倍もの時間をかけて、住吉台の自宅へ帰った。近所の人が道路に出ていた。車を停め自宅に入ると、ほとんどの物が所定の場所になかった。電気は止まる。もうガスも水道も止まる。いやすでに止まっている。北国のまだ寒い時期をライフラインなしで過ごすことを考えなければならなかった。

家の中にいた老女と一緒に出掛けていた家族は糖尿病の持ち主だった。そして今思うと信じられない事に、原発事故で一躍有名となった福島県の海沿いのゴルフ場に老人男性が出かけていた。まだ帰宅していなかった。

揺り返しがくるかもしれない。とりあえず車で過ごそう。ということになり、犬を入れるキャリーバッグを落ちた物でがちゃがちゃの物置から引っ張り出した。犬を詰め込み、毛布や布団類を持って車に乗った。

隣人は両方とも自宅にいるようだったが、避難しないようだった。窓からこちらを見る隣家の初老の男性が見えた。

 

車に乗って近所の公園の路肩に車を停めた。ここには公衆トイレがある。停めてカーナビを見ながら様子をみている時にトイレを一度使用した。もう水は流れなかった。

さっきまで晴れていたはずの天気がみるみる曇り、次第に雪が舞ってきた。まさかの大雪となった。地震が本来地球規模であることを悟った。地球内部から発した目に見えない何かで雲や風が変わるのだと思った。

ミヤネ屋では何度も地震と津波の状況を流していた。自分のケータイのワンセグでも見ていた。電話は通じていた。しかしそれも程なく不通となった。

無事に逃げ出せたが、どうしてよいか分からない。老人男性が一人帰れない状況であると推測される。この状況でも私はなぜか冷静であった。少し楽しんでいたのかもしれない。

外はまだ明るい。

どうにもならない状況に、充電やガソリンだけが減ってゆく。そして我が家に健康な人間は私だけであとは疾病持ち。犬もいる。これらをなんとかしなくてはならない。しかし今はどうしたら良いのか・・・。

このようないわゆる大変な状況となっても「避難所に行くなんて大げさかも」「騒いでるのうちだけじゃないの?」といった変な羞恥心があった。不思議なものだ。しかし変わらない状況を打破すべく、近所の小学校の体育館に向かった。隣接して中学校もある。この辺りならどちらかで人がいるのではないか、という期待があった。

家に戻って、糖尿病患者が生きるための栄養を探した。仏壇に乗っていたバナナと大量に買いこんでいた菓子パンを持てるだけ持った。冷蔵庫の中身は全て飛び出していた。掃除は後だ。インスリン注射とブドウ糖のタブレットも必須だった。それらを段ボール箱に詰め込んだ。

中学校の体育館の周辺には人が集まっていた。しかし体育館の天井が落ちたという言葉が聞こえ、一同は小学校へ向かうようだった。我々はまだ引っ越して数か月のよそ者であったが、一緒に向かった。犬はビビりだったが、車に残した。

体育館の中はすでに人がいた。ステージの向かって左側には会議テーブルが置かれ、何かの札を首から下げてジャンパーを着た人が数名いた。役所の人のように見えるが、誰か分からない。しかしリーダーのような役割のようで、何かを尋ねても良い人のようだった。

体育館のほぼ真ん中のあたりに陣取った。糖尿病患者ふたりは寒さで血圧が上がる。血糖値が下がると倒れる。この二つに特に気を付けなくてはならない。老女はその年代特有の考え方から「トイレ行けないから水を飲まないようにしよう」と言った。それが間違いであり、その選択のほうが何倍も危険であると言ったが面倒に感じ説得は半分あきらめていた。

 

前方にいた数人のジャンパーを着たリーダーのような人たちは、程なく避難してきた人たちに向かって大声を張り上げた。「非常食のご飯ができました。水もあります。一つずつ遠慮なくどうぞ」と言った。白米のようだった。スーパーのお惣菜コーナーでコロッケを入れるような透明なパックにご飯が入っていた。箸もついている。我が家は食べ物を確保していたためご飯はもらわなかった。白い紙コップの水だけを受け取った。

 

しかし現代人は平和ボケなのだな、としみじみ思った。我が家が布団を詰め込んできた段ボールを置いておくと、ゴミ箱と思ったのか紙コップを放り込む人間がいる。それうちのですが、といってやめてもらう。この後何日避難生活になるか分からない。ましてや食料が確保できるかも分からない。洗い物が出来るほど水があるかも未知の段階で、紙コップを早々に捨てるのは、ボケと言わずして何なのだろう。紙コップ一つとっても物資のない被災地では大切な道具である。それが分かっていないのだ。現代人のやってもらって当然という受け身姿勢の悪いところと言うべきだし、同時に、さっきの揺れがまだ大規模な震災であることの実感のない状態なのだと思う。誰もがキョトンとしていた。

 

我が家から持ってきた布団をかけて皆くっついて体育館の床で眠った。避難してきた人々は皆体育館の中心に集まる形となったが、これは唯一の暖房であるジェットヒーターが少ないためであった。足を伸ばして思い切り眠れるわけではない。

老女は足元にいる誰とも知らない中年男性を「邪魔」と言って寝ながら蹴った。男性が気の毒であった。老女はその年齢から助けられる側のはずだが、その意識の有難みがないのか年齢的に上の者が威張って良いと思っているのか、そんな態度であった。年をとっても小さい人間は小さいらしい。飽きれながら何世代も下の私は「やめなさい」と言った。

壁に近い端のほうには車いすの御老人方がたくさんいた。車いすなので、座ったまま肩に毛布をかけられ、揺れで車いすが動かないように付添の人が押さえいた。その人達は向かいの介護施設の職員と入所者らしかった。車いすも大変だ。風引かないと良いけど。

外は大雪だった。ヒーターの暖める力よりしんしんと積る雪の寒さのほうが上で、どんどん冷えていくようだった。体育館はずっと揺れていた。いつ揺れが止まっているのか、もう自分では分からなかった。頭の中が揺れているのかもしれない。体育館の天井にはバレーボールが引っ掛かっていた。懐かしい光景だ。あれは落ちてこないのだろうか?天井がギシギシ唸った。この日、ゴルフに出かけた老人男性は帰らなかった。