機能主義と観念論の話。

どうも~こんにちは、あまねですよ。お元気かしら。

 

千葉で地震が続いていますな。

スロースリップっていうんやて。断層がゆっくりずれるの。

お友だちが方々に出来るのは幸せなことだけど、その数だけ心配ね。

 大きな被害が出ないことを祈るわ。(うちもね)

なんだかお堅いタイトルなんだけど、なんつうことない思い出話です。

 

某でっかいお寺さんの住職とお友達なんだけど、彼が言うには世の中には「機能主義者」と「観念論者」がいるんだど。

それである日突然

「君は機能主義者だね!」

と言われまして。

 

機能主義者ってのは「物を機能で判断する人」らしいんだけど、彼が例えるには「ここに水と尿瓶がある。コップがなければ尿瓶で水を飲めるか」ということらしい。

尿瓶でも洗うなり処置すれば飲めるのが機能主義者で、なんか嫌で飲めないってのが観念論者なんだそうな。

 

えっ私飲めるけど?どうして?

って答えたんだけど、

それが自分と他の人とのズレに気付いた瞬間でした。

 

彼曰く機能主義者は10%しかいないんだってさ。観念論者は90%。これは彼の経験上のものなんだって言うんだけども。

彼は周辺のお寺を統括する権限を持つエリート住職でありながら、哲学者でもあるのです。実際10万円近くもするセミナーの講師もしていました。

 

しかし一方で移住者でもあったので、私とは仲間。

その辺で話が合ったのでしょう。夜お寺に忍び込んで庭を眺めながらよく話をしていました。

 

おしゃべりが止まらない坊主のおっさんなので、良くしゃべる私たちはもう止まらないわけですね。

加えて彼の専門の一つであるニーチェやら茶の本やらの話になれば、私が程よく応えるのが良かったのかもしれません。

 

「大体の人が水はコップで飲むものだと思っているんだよ」

と彼は言いました。

まあそうなんだろうとは思っていても、尿瓶は洗えばコップと同じだろうと思う私は異端なんだと。

 

でもほとんどの人はその考えが理解できないから、違う考えの人には早めに気付いて理解できたフリをするか観念論者のフリをしないとダメだよ。じゃないとどんどんおかしい人だと思われて生き辛くなる。

少数派は追いやられるから、こちらから気付いて付き合ってやらないと。何しろ我々は絶滅寸前だからね。

 

そんな風に教えてくれました。

まるで外国であった元同種民族みたいに、現地での生き方を説かれたみたいでした。

 

観念論者は物や人に「として」や「ねばならない」を付けて考えるのだそう。

コップとして、母親として、人間として、社会人として、水を飲む時に使わねばならない、生きるためには働かねばならない、子供の面倒を見なければならない、などなどたくさんあるね。

 

これ、今だったら交流分析心理的に考えることができます。当時はまだ学ぶ前だったけれども、固定観念が強すぎる人はとても苦手でした。この固定観念が占いに不必要だと分かっていたので、タロットを手にした時から気を付けていたのが良かったのかもしれません。

 

観念論者には「気付かない」という幸せがある、そうです。

それは分かる気がする。知ってしまったらもう戻れないからね。そう思い込むことで「当たり前だから疑わない」という幸せがあります。

そして観念論者の言う「として」や「ねばならない」は実にもったいない。

 

「成人しているから働かなければいけないじゃないですか」

 

食い気味でこう言ってくる人がいるんだけど、そうですか?どうしてなんでしょう?「成人しているから」と「働かなければならない」のは同じなの?働かなければならないのは皆そうなの?

 

そう思い込んで働いているのは幸せなのかもしれない。

でもこの「ねばならない」の魔法をとく呪文があるんですね。それは

 

「ホントウ?」

 

この一言です。それホント?って尋ねるだけなんだけど、本当にそうなのか考えてみないといけないってことです。

「考えたくないからそうしているってだけ」

結局のところこれが正体なのかもしれません。

 

「として」や「ねばならない」は井戸の中ですね。疑ってみることで井戸から出ることができます。いいですねえ。大変ですけどもねえ。

 

井戸から出たくないっていうなら良いと思います。楽だし、その人が幸せって言うなら私も幸せ。でもどっちつかずで苦しんでいる人がいたら、ちょっと手助けしたいなあ、と思うのが占い師だと思うので、その辺に活かしたいですね。

 

だって井戸の中にいると「助けが必要な自分」すらも分からない時があるから。手はきっとあちらからは差し出されない。こっちが差し出してもつかまない。

 

でもこの「ホントウ?」はいいですよ。

何かにつけ言ってみると、いいんです!(カビラ風)

 

この違いを抱えながら、たくさんの職員と勤務している坊さんを束ねてお勤めをする彼にも、固定観念や行き過ぎた主張の強い自我はありました。

 

私は仏教徒ではないんだけれども、仏教で言う「生まれた瞬間からこの世は修行」ってのはあながち間違ってはいないようです。哲学者のおっさんは今も少数派として仮面をかぶり、仲間を探しながら窮屈にしているんだと思います。