幸福論と料理

おはようございます。まだ朝と呼べる時間なのでこんなことも。

朝8時には手が空く生活なので、進まない国会答弁の様子を同じような言葉で毎日伝える朝のニュース番組もほどほどに、傍らにコーヒーを置いてパジャマも着替えずに本を読んだりする。

だんだんコーヒーと合うかりんとうなどを置き始めると読む指よりつまんで食う指のほうが忙しくなるので、頁をめくるたびに汚れる事を考えても、本当はやめたほうがいいと思う。毎回思っている。

 

河合隼雄さんの「河合隼雄の幸福論」が届いたので早速読み始める。出版はおととしだが買うのが今頃になってしまったからしょうがない。

河合隼雄さんは本を書くぞと思って書いたものが少ないように思う。ほとんどが息子さんが編纂して1冊にまとめたとか、短いコラムを長く続けていたら1冊の本が出来るまでになったとか、対談を本にしたとか、そんな感じなので、読みやすい口語で読み切りが多くて、何が言いたいのかというとつまりすごく読みやすい。

 

ちなみにこの本は2番目のやつ。新聞に載っていた短いコラムね。

P66に「人生の味」というコラムがある。ある全寮制の学校では、生徒について話し合う会議では厨房係を入れて行うというもの。厨房係とはご飯を作ってくれる「給食のおばちゃん」的な存在。

しかし給食のおばちゃんを生徒の進路や教育を話し合う会議に入れるとはどういうことか。全寮制というところもポイントなのだろうが、この学校は不登校児専門なので、生活全般を教育する機関なのである。

不登校の原因が部分的ではなくその子の生活全体に原因があったり生活全体から原因を見出そうという前提があることがうかがえる。

 

厨房係は子供たちがどんなふうに食べるのかをしっかり見ている、という。がつがつと早く食べようとする子、たくさん食べようとする子、味わっていない子、見れば分かるという。毎日3回のことだから、どの子がどんな食べ方をするのか見ていて覚えている。ここが教育に生かされるので厨房係を会議に参加させるのである。

 

がつがつ食べる子はこういう子、とか早く食べる子はこういう子、とかそういった決まりきった算数の式のようなことは出てこない。そこから何を見出しているのかも書かれていない。そして私は子供もいないし欲しもしないし児童教育にも関心がないが、思う事はある。

食べるという事は非常に原始的な事である。タロットの月や星や太陽のカードは原始的な人間の欲であるとされるが、そんなイメージである。だって生きるための行為だしね。遊びに行きたいとかスカートが欲しいとかそういった欲とは同列にならない。

料理はまず、同じ料理が出てくると思っていても実は違う。家庭料理は作っている人が家族で、たいてい母親かそのポジションの人なんだろうけど、毎日食べる味噌汁であっても塩加減が違う。これは女性が無意識に毎日同じと感じられるよう天気や体調を自動的に考慮して自動調整している。だからグラムを計って本当に毎日同じ味の味噌汁を買って食べるのとはわけが違うと思う味になる。そして女性ってすごい。男性料理人とはまた違ったことになる。

 

この気付かないくらいの少しの違いが、その人の作る料理の味になる。この味加減を味わわないで食べるという行為をどうにか捉えて教育に取り入れているのであろう。行為にその人がにじみ出るから。

 

私は食事のマナーにうるさい親にしつけられ、自分もそこまでではないにしろ箸の持ち方やスパゲティの食べ方や魚の骨の取り方なんかにはそこそここうるさいと思う。私はそれを教わった過去を持つそういう人柄なのであると思う。一緒に食事をとると親密になる魔法はこういうところが関係するのか?

現代は少しでも早く正確に情報をつかむのが良いとされていない?確かに例えばこのサイトみたいにうさんくさかったり不特定多数向けに発信されたネットの情報には疑わしいものが多いけれど。

でもこれを料理に持ち込む人が多いし、そんな風潮がある。我が家の鍋やIHのレンジ台は始め「けったいなもの」であった。土鍋でご飯を焚いて包丁で食材を刻んでいた自分の生活には「早く」作ることが重要ではなかったし、小さい頃から料理が趣味であったから手間を楽しむことがなにより良かった。

しかし突如として現れた我が家の鍋は、フルセットでたくさん存在し、どの鍋でもご飯も焚けて揚げ物も出来る。IHでタイマーセットすれば何でも時間通りにできるし、無水鍋だから水が少なくて良いとか、深い鍋と蒸し器と仕切りのようなプレート(未だに正しい名前が分からない)にそれぞれの食材を乗せて蓋をしてIHを何番にセットしてスタートを押せばご飯と汁物と煮物が中で同時に出来上がるとか、そういう仕組みになっている。

極めて時短であるし、それはそれで助かるしおおいに利用しているが、それが良いとしておすすめしてくる人の料理の、まあできないこと。残念に思う。この鍋とIHじゃないと料理はできない、と抜かすので、一体料理とは何なのだろうと思う。少なくても料理好きではない。私は有能なフードプロセッサーに仕事をさせるだけでも手早く終わって実に残念。

 

そもそも料理って何のためにするかって、生きるためだ。最初は生きるために食べないといけないから、そのために食材を安全に加工することが調理であった。そしてだいぶ時は流れて料理にお楽しみ要素が増えた。料理できないと女失格とか嫁失格という時代もあった。そして現在、手間をかけないのが良いとされている。足りないものを補うためにサプリメントもあるから、料理は手間をかけなくても良い。

これって最初に戻ってない?真ん中の時代の手間や工夫を楽しんだり必死で覚えたりすることはもうないわけで、加工だけが目的なら原始的。私がいつも思う進化と退化は一緒だねってことになりそう。

時短にこだわる人は家庭の味よりも調味料を間違えないように計測することがある。そこは大事ではないのだけれど、大事と思っているみたいで。でもそういう料理は食べる人のことを想っていないので、また食べたいと思わせないことが多い。

 

作るのがめんどくさい時はめんどくさい味になるし、喜んでほしい時はその人に沿った味になる。

この鍋やIHやフードプロセッサー生活に最近では慣れてしまったからまあ良いとして、その人を想っていない料理は買ってきた料理である。外食はたまにだから楽しいのに、毎日だと飽きる。飽きるのは作っている人が飽きないように自動調整しないから。同じ分量の調味料では飽きるのは当たり前。楽しいのは味ではなく場を楽しんでいるから。

それで長い話ではあったけれども、そんな想いのこもった料理を体に入れるということは受け入れるという特別な行為ではないだろうか。その受け取り方でその人を見るというのは実に面白いし、今現在のその人を知るには良い方法だと思った。

早食いはするけど味わっていない子はゆっくり噛んで食べる子は違うはず。食いしん坊にも理由がある。

 

やはり料理好きとしては、味わって食べて欲しい。味わうという事は想いを噛みしめるということ。平気で時短料理や計測した調味料ばかり毎日出す人を悪く言うつもりはないが、その行為に一度でも違和感を感じたことがあるだろうか。

必要と好きはまた別だし、効率的なことが正解ではない。作る事ばかりに気がいって食べる人にどう食べてもらいたいか、その人が今どんな気持ちでどんな体かを考えないで差し出す料理がどんな味になっているか?受け入れてもらえるのか?

 

そんなことを考えたことがない、加工した物体をただ時間で押し付けてくる人を、とてもかわいそうに思ってしまうのである。