不思議な年の瀬門

今年もあと十数時間でお終いです。

お終いというより、引き継ぐような生まれ変わるような、継続するけどちょっと形が変わって継続するような感覚でいます。アップグレードみたいなね。

 

今年の私は、大きな流れの中に何年かあってその流れの中でも終わりの方の「形になる時期」に居た感じでした。

これは星の予言どおりに動いていて、「星の予言を見ながら先を読んで動こう」と思うのか「予言通りに動いてなるものか」と思うのかといったら、私は前者です。後者の人も多いですね。

でも星の予言は神託ではないので「その通りに動かされる」とか「未来は決まっている」とか思わなければ後者にはならないと思うので、後者の人には「大丈夫基本自由」と全て漢字で言ってあげたいなと常に思っています。

 

何の話か逸れてしまいましたが、「形になる時期」は最終段階であってもけっして「もう終わりだよ」ではないので、まだ最終形態がどうなるのか見えているようで見えていないのです。

だから、最後の最後までまだまだ走りぬきます。

走っていると変化を感じます。今現在も毎日感じるので、だんだん面白くなってきました。

面白いので走っててもいいかなと思うからあまり苦に思わず走るのですね。

そういえば私、馬なのでした。

遠くを見ていつも走っています。それが普通です。

目が横に付いているのですぐ目の前を見るのは苦手なんだけど、一応見えますよ。その時は人間として見ます。

馬なんだと言って、今年は肯定する人がいました。その人は牛だったけど、牛に肯定されるのも有りだ。同じ四つ足の形の違う相手はなんとも面白い。

だって胃が4つあるし。4倍の量食べる事が出来るの?とくだらない質問したり。んなわけないけど形の違いを楽しむのが自分的にオツです。たぶんこれしばらく続くでしょう。

 

なんだか、日記のブログを書いていますね。日記として使うのがあまり好きではないのですが、まあ良い。

昨日は、思いがけず東北大震災の動画や写真を見て、たくさん泣きました。いつも、見ると泣いてしまいます。泣くと分かっていてしばらく見たりもします。

なんで見てしまうのかと言ったら、被災者のひとりだからに他ならないでしょう。

そうして夜になったら、その東北大震災の余震がありました。高萩市で震度6弱。

東北大震災の余震でありながら、高萩市では体感震度が昨日のほうが強かったようです。

実際物が落ちて壊れたのは5年前より昨日のほうが多かったようです。そんなこともあるのですね。

地震を起こしているひとにお願いしたいのは、やはり年末にねじ込むのではなく、穏やかに過ごさせてあげて欲しいですね。

年末と年始の狭間には、門があります。大きな門です。

来年に行けるかどうかは、門を通れるかどうかになります。通れなければ、来年には行けません。

皆来年に行きたくて年末に色々とねじ込んでくる。無理矢理通ろうとする。

それは、地獄で見つけた蜘蛛の糸の様に、我先に通ろうとするので詰まってしまう。これが年末。

不思議なものです。

この門を通れない会社は、年始に潰れます。年を越せない会社があるのはこれだと思います。

人が死ぬのもそうかもしれません。羅生門と同じかもしれません。

羅生門は、門という形の結界でした。だから通れない鬼たちが溜まってしまう。

門の周りには「最後の引き留め」があるのです。

自分は通れなかった。だからおまえを行かせてなるものか。という念です。

今年の汚れを今年のうちに取る。

某洗剤メーカーがキャッチーに言っていたこれは、正しいのでしょう。色々な穢れを落として門をくぐりたいなと思います。

馬だからきれいに通れる自信がありますね。

門の話、ちょっと引っ張りましょうかね。引っ張ります。

門に吹き溜まる念はどこから来るのか。これは「通りたくて通れなかった者が通れなくて困って居る」ような感じがしていましたが、人工的な副産物なのかなとも思います。

というのも、そもそも年末の大掃除をして穢れを払ったとして、払った穢れはどこに行くのでしょう。

穢れは来年に行けません。だから門に溜まる。

でも自分たちは来年に行くから置いてくる。

穢れを処分したようで、実は目の前になければいいという人間の自己中心的な考え方で、穢れは本当は門に溜まってしまうのではないのか??

門をごみ溜めにしたのは人間なのではないだろうか?

でも人間は良くも悪くも視野が狭く世界が狭いので、払って目の前から消えたから処分した気になっているけど、実はごみ溜めに追いやっただけでごみは溜まっていくだけなのではないのだろうかね。

ごみは出す人がごみと言わなければごみではないからね。

年末の念にやられるのも、誰かの払った穢れかもしれないね。でもそういうループにいるのだね全員が。

恐ろしくはないのだけれど、エアコンをつけて温暖化が進み暑くなるからまたエアコンをつけるように、終わらない問題なのではないかと思ったりする。

ごみを出さないわけにはいかないもの。

 

そんなことを言いながら、私も掃除する。穢れを払う。

目の前になければ問題は存在しない。

子供が目の前にいないから、子供の貧困は存在しない。

心は見えないから、私はあの人に問題を起こしていない。

そんな風にはならないで欲しいな。と小さい希望だけ思っておくことしか出来ないなと思う。

いやなことは目に触れないところに置いておきたいのが人間の生きるための知恵のようだしね。